夏見の道

船橋駅北口を出て馬込沢に至る道は、享保(1716-35)以降に作られたとみられる。

享保13年(1728年)8月30日から降り始めた雨は、9月も2日、3日と降り続く大雨となり、「夏見台地の崖が山崩れを起こし、名主何某の家は潰れ、他にも何十か所と山崩れがあり、百年にも例のないことだと、世人は申していた。」と記述されている。

ここに記されているのは田島村のことであり、夏見台地の西南の長津川沿いに転々とたっていた集落のことであろう。

当時は田島は東夏見村に属し、夏見台の西側は西夏見村に属していた。

西夏見村と田島の間には崖があり、道路がないことから現在考えると不思議と思われる区割りとなっていた。

田島の人々は、長福寺前面の井戸坂とか、薬王寺前の坂を使い東夏見とつながっていたと思われる。

その証拠の一つとして、江戸時代の初期・慶長年間に知行地として旗本遠山小左衛門景政に田島を含む東夏見と貝塚村が与えられ、西夏見村は旗本朝比奈源六正重に与えられている。

しかし、幕末から明治維新の間に、西夏見の戸数が東夏見(田島地区を含む)増加率が特段に高い。

次期東夏見西夏見
過去のデータ
安政2年(1855)68戸35戸
明治5年(1872)71戸54戸

船橋十字路から北に向かう船橋消防局夏見分署の坂道はこの間に作られ、西夏見地区の住居の増加を促したと推測できる。

明治に入り、天沼地域の沼地の開拓が企画されるも、実際に行われるのは昭和に入ってからで、特に天沼地域は沼も海老川河床より深く、工事は困難だったと思われる。