中川船番所は、寛文元年(1661)6月6日小名木川の中川口北岸に設置され、江戸に出入りする人と物資を査検した川船改のための関所である。 中川番役を勤めたのは寄合の旗本で、旗本自身は平常、番所には詰めず、家臣を派遣していた。規模については、『新編武蔵風土記稿』に東西26間余(約47メートル)、 南北17間余(約31メートル)と記されている。また、『江戸名所図会』の挿絵によると、番所の周囲には木柵がめぐらされ、槍10筋が装備されており、小名木川縁には番小屋が建てられている。 通関手続きは次第に形式化していったとみられ、「通ります」というと、「通れ」と応えて通行を許したという川柳もある。 明治2年(1869)2月、全国の関所廃止の通達後も査検が続けられたが、4月、正式に廃止が指令された。
江東区は大部分が江戸時代以降の埋立てで形成されています。また埋立てと並行していくつもの水路が開削され、 その結果江東区の産業や文化に大きな影響を与えてきました。そのような歴史の中で、寛文元(1661)年に、 江戸を出入りする船を取り締まるために小名木川の隅田川口に置かれていた「深川口人改之御番所」が、中川・小名木川・船堀川の交差する中川口に移転し「中川番所」となりました。 中川番所があった場所については現在の江東区大島9丁目1番地と推定されていましたが、平成7(1995)年の発掘調査において柱材や礎石などが出土したことにより、 中川番所跡であることがほぼ確定しました。中川船番所資料館は、この番所跡地より北に50メートルほど離れた場所に建てられています。
小名木川は全長約5qで、隅田川と旧中川を一直線で結ぶ人工の運河です。小名木川の歴史は古く、徳川家康が関東へ入封し、江戸城を中心とした城下町の建設に合わせて、 小名木川の開削に着手したといわれています。当時、千葉県の行徳では製塩が盛んにおこなわれており、徳川家康は行徳の塩を江戸城下へ運ぶために、船が往来できる水路を必要としていました。
小名木川は、1590年頃に徳川家康が江戸城を居城に定めた際に建設されました。家康は兵糧としての塩の確保のため、行徳塩田(現在の千葉県行徳)に目を付けた。しかし、行徳から江戸湊(当時は日比谷入江付近)までの江戸湾北部は、砂州や浅瀬が広がり船がしばしば座礁するため、大きく沖合を迂回するしかなかった。 そこで、小名木四郎兵衛に命じて行徳までの運河を開削させたのが小名木川の始まりです。
小名木川の開削によって、安全に塩を運ぶことができ、かつ経路が大幅に短縮されました。運河は塩以外の品物の運搬や、成田参詣客なども運ぶようになり、 行き交う物量が増大しました。1629年、小名木川は江戸物流の重要河川と認識され、利根川東遷事業と併せて拡幅されました。
小名木川は全長約5kmで、川幅は最大約50メートル、最小約26メートルです。東端は旧中川、西端は隅田川と合流し、途中で横十間川、大横川と交差しています。
小名木川は、旧中川から隅田川へ通航するためには扇橋閘門
■■ 歴史的遺産■■
◇中川船番所◇
小名木川と旧中川の合流地点には、中川船番所がありました。中川船番所は、江戸時代に小名木川を通る船の取り締まりを行い、船荷に江戸の治安上危険な物などが紛れ込んでいないか確認するために設置されました。 現在、中川船番所資料館があります。
◇著名な人物◇
小名木川を往来した著名な人物には、松尾芭蕉や石川雅望、小林一茶、渡辺崋山などがいます。芭蕉は『鹿島紀行』で乗船しており、雅望は『成田紀行』を著しています。
■■ 現在の状況■■
小名木川は、現在でも江東区を横断し、隅田川と旧中川を結ぶ重要な運河として機能しています。小名木川の歴史と風景は、江東区の歴史資料館や中川船番所資料館で見ることができます。
このように、小名木川は江戸時代から重要な役割を果たしてきました。歴史的な遺産と現在の機能を兼ね備えた運河です。
江戸幕府が重要としていた川や掘
日本橋川は、江戸の中心部を流れる重要な川でした。江戸城の建設時に掘られ、江戸の物流の中心として機能しました。河岸が多く、食料や生活物資の運搬に利用されていました。
道三堀は、日本橋川と外濠を結ぶ運河で、江戸城の建設資材や物資を運ぶために使われました。行徳からの塩の輸送にも利用されていました。
京橋川は、日本橋川から分かれて南に流れ、京橋や八町堀(桜川)とつながっていました。江戸の物流において重要な役割を果たしていました。
外濠は、江戸城の外郭を囲む堀で、防衛のために掘られましたが、同時に排水路や運河としても機能していました。
新川は、行徳から江戸への塩の輸送に利用された重要な川でした。江戸川から古川を経て新川に入り、江戸湾に至るルートが物流の一翼を担っていました。
仙台堀川は、東京都江東区木場付近の大横川付近の西部と東部河川態様は全く異なる。大横川西部では河川水面は、海水面と同じ水位であり、途中、平久川と大島川西支川を分け、 江東区清澄付近で隅田川に合流する。合流する手前には清澄排水機場がある。大横川東部では、堰き止められ海水面より水位が低くなっており、埋め立てられて、仙台堀川親水公園となっている。
江戸時代(寛永:1624-1644以後)に開削し、運河として利用されてきた。さらに横十間川より上流を明治以降に延長した。昭和になり工業地帯として発達すると地下水の汲み上げによる 激しい地盤沈下がおこり、水害が頻発するようになった。この治水のため1982年にゼロメートル地帯の、おおむね木場公園から東部の区間を堰き止めて、 常時排水機場から排水することにより水位を下げ、埋め立てて仙台堀川親水公園として整備した。
北岸にあった仙台藩邸の蔵屋敷(江戸時代,諸大名が年貢米や特産物を売りさばくために江戸・大坂・大津などに設けた,倉庫と取引所を兼ねた屋敷)に米などの特産物を運び入れたことに由来する。 「仙台堀」とも呼ばれていた。以前は砂町運河(小名木川〜横十間川間)、十間川(横十間川〜大横川間)、仙台堀川(大横川〜隅田川間)と分けられていたが、1965年の河川法改正により一つにまとめられた。 かつて大横川と交差する付近は三十間川との名称でも親しまれていた。
木場公園は、東京都江東区にある都立公園である。地名としては、木場、平野および三好にまたがる。総面積は24.2haで、当地近辺においては、貴重な緑豊かな場所である。 元々は、地名の由来通り、近辺は材木業関連の倉庫や貯木場などが多かった。しかし新しい埋立地が完成して、今までの貯木場としての機能が新木場へ移転したため、江東区の防災都市計画(住宅などが密集していることによる火災や地震被害を食い止めるため)の一環として、当地に公園を作ることになった。 木場(貯木場)の故地であることを残すべく、入口広場の中央のイベント池では、毎年10月に開催される江東区民祭りで木場の伝統芸である「木場の角乗」が行われるのを見ることができる。 イベント池ではカルガモ及び冬になるとマガモやオナガガモやヒドリガモ等の水鳥を見ることが出来る。 紫陽花の時期には、7色の紫陽花を見ることができる。